2008-08-31

足で水掛け Water is sprinkled with the foot.

この頃のスーパー銭湯ブームに便乗し、身体の疲れを癒しにスーパー銭湯巡りなぞしている。

銭湯ほど人が本当に裸になるところはないようで、浴室内に流れる館内放送も日に日に「注意項目」が増えていく。

浴槽にタオルを入れるな、水風呂には汗を流してから入れ、洗い場、サウナ内の場所取りはやめろの他、男湯でも長髪は髪を束ねては入れというものまで流れていた。

テレビ局の取材が入った時など、営業で道草を食っているサラリーマンがおふざけで、「下半身はぼかさなくていいから、顔をぼかしてくれ」という猥雑な話もあれば、何を考えているのか、浴槽内での読書や喫煙、ひげそり、歯磨きをする者もいれば、雨に濡れたズボンをサウナ室に持ち込み、渇かそうとするのもいる。

長湯で浴室で具合が悪くなったのか、湯船に沈み込んだ年配者を周りの者が誰も気がつかずに、露天風呂から僕が戻った時には湯船の中に沈み込み、あぶくが浮かび上がっていたところを助けた事もあれば、首筋から足首まで背中に刺青をいれたお兄ちゃんが店員の目を盗んで、風呂に入り、石鹸をつけ、洗い場で体を洗い始めた時に店員に追い出される場面に出くわした事もある。

何でもありの銭湯の光景の中、先日、これこそ絶句ものに出くわした。

父親とおぼしき人がジャグジー風呂に入る横で、その子供と思われる7、8歳の子が父親の顔めがけて、足で水をかけていて、父親も何も言わず、かかった水をぬぐうのみ。

放任主義の父親は数多く見てきたけれど、こんな父親は始めて見た。

この子の将来も恐ろしいけど、この父親の将来は悲惨なように思う。けれども、そんな世の中なのかなのかなと、その光景を容認してしまう自分が一番恐ろしいような気もする。

2008-08-28

遠足 Excursion

明け方の雷の爆音と地響きは凄かった。その後の激しい雨は自然の中で生活している自分を思い知らされ、目を覚ましたけれど、月末で立て込んだ仕事をこなし、疲れた身体はその雨音でまた眠ってしまった。

昨日は札幌市が打ち出した障がい者の交通費助成見直しが、当事者団体の意見を聞きつつ、話し合いの席に着こうとしない市側の態度に対し、抗議の意味も込めて、市役所に総勢500人に及ぶ当事者、その親、サポーターが集まった。

高齢化による税収の減少から来る財政難を盾に、助成見直しを撤回したがらない札幌市は、来年4月からとする見直し実施を強行はしないという回答のみで、まだまだ不安はつきまとう。

高齢化する社会で、社会基盤として重要になるのは社会福祉のあり方なのに、所得保障も提示しないまま、生活助成を削ろうとする行政のあり方はやはり常識外れのような気がする。

たかが交通費だけれど、月々6万円強で暮らす障がい者が地域で生きるために通う作業所も、自立支援の就労施策により、働く場の利用料として、一割負担を強いられている現状、手取りの目減りは分かり切っている事であり、市民の負担増より市の財政を重んじるならば、今後の破綻は云うに及ばずだと思うのだけど。

明け方の雷の爆音と地響きを行政マンたちはどんな思いで寝床で聴いていたのだろうかとふと思う。

昨日市役所前に集まった市民たちは久々に逢えた互いの健康を気遣い、励まし合っていた事を知って欲しい。この遠足すらままならぬものにしてしまわないためにも。


市役所前に集まった人たち

2008-08-25

復刻 Reprint


復刻されたCDのラベル

代表曲「自由への長い旅」が現在活躍する多くのシンガーたちのバイブルであると云われている岡林信康氏の初期の音源のCD復刻第一弾が手元に届いた。

復刻は絶望的とも云われていたものだけに、嬉しくなってこんな記事を書いたりする。

第一弾は関西ロックのレーベルURC時代のオリジナルアルバムが、オリジナルの形で音源も今までの復刻ではレコード会社が自粛し、カットした曲も完全収録されている。紙ジャケ仕様のもので、当時のアルバムのミニチュアもコレクター心をくすぐりもする。

小冊子のライナーノーツには当時の岡林氏の記事を掲載すると同時に、デビュー40年の歩みを振り返る岡林氏のインタビューも掲載されている。

牧師の父の後を継ぐべく、同志社大に入ったものの、父の教会の信者であった不良少女が何かの事件を引き起こした時、他の信者から激しいバッシングが教会に寄せられ、少女は教会に来なくなった事から、父との亀裂が生まれ、大学をやめて、東京・山谷のドヤ街に日雇い労働者として転がり込んだという岡林氏は、学生だった時は、ドヤ街の住人たちを見下していたけれども、自分も簡単にドヤ街の住人になれるカルチャーショックを受けたという。

反戦シンガー高石友也のライブを聴き、ボブ・ディランに憧れた岡林氏はビクターからアジテーション・ソング「ほんじゃまあおじゃまします」でレコードデビューするはずだったけれども、政治家諸氏を愚弄しているという事から、発売中止の憂き目にあった事から、反体制シンガーとして、脚光をあびるものの、反体制である事に意味を重んじる支持者たちの中で、自分を見失うまいと、フォークからロックへ転向するけれど、更なる重圧に、ステージのスケジュールをドタキャンして、山奥の村にひきこもる。

歌う歌は演歌に変わり、美空ひばりとの出逢いから歌の内容も自分と自然を見つめる歌に変わっていった時、必死に生きる事は無理しなくてもいいに変わっていったという。

日雇い労働者は今は名前を変えて、ワーキングプアという若者たちになり、必死に生きなきゃならない時代となった。還暦を迎えた岡林氏もこの国の人間たちを何とかしたい、という想いがあるのだろう。今回の復刻を岡林氏は自分の活動歴の「ほんの序章にしか過ぎない」と断り、反体制というステータスを否定し、必死に生きなきゃならないから生きた時代を振り返る。

今後、ひと月おきに初期音源が体系的に整理され、発売されるらしく、10月の第二弾はアジテーション渦巻くライブでアルバム化されたもの3点。

松本隆、細野晴臣、鈴木茂、大滝詠一のハッピーエンドとのジョイントでエキサイトする音源やいろんな曲をパロッて、ベトナム戦争で戦争の親玉になったアメリカを野次った「アメリカちゃん」が初のCD化となる。

「いつの間にか私が私でないような」「もう一度私になるために」

岡林氏の新たな「自由への長い旅」に付き合える「今」を喜びたい。

2008-08-24

メタボかも Am I Metaboricc?

急に寒くなってきたこの頃、マイミクしている俳優さんのブログでは「北海道はもう冬」という記述がされていて、フン!と思ったけれども、確かに寒い。(>_<)

春先からパソコン作業の仕事も兼業し始め、仕事後、新しい環境での精神的な疲れを解消すべく、スーパー銭湯とその横にあるうどん屋に通い続けているうちに、お腹周りが何となく、メタボ。

体脂肪計も夏場は10%前半でキープしていたのが、昨夜は10%後半に突入。

平日ブラブラしていた時はそれなりに用事を作り、動き回っていたけれど、パソコン作業のデスクワークがいかんのでしょうか?

天高く人肥える秋、来月は職場のおばちゃん200名との大ジンギスカン大会があるし、忘年会の準備も始まる。

ストレス発散に身体を動かす事を考えなきゃ、本当にメタボなのかも。

銭湯の客同士語り合う、燃料高で、寒さこらえる腹筋運動はゴメンだけれどもね。

と思う事はやはりメタボへまっしぐらなのかしら。

2008-08-22

本に署名する事はおかしな事だ The thing signed to the book is a strange thing.

ラテンアメリカ文学の偉人ボルヘスの名著「伝奇集」に「本に署名する事はおかしな事だ」と明言する箇所がある。

「剽窃の観念など存在しない。すべての本が、時間を超えた、無名の唯一の作者の作品であるという事は確かな事だ」と続けて、ボルケスは云う。

名著「不死の人」でもフランシス・ベイコン「エッセイズ」を引用し、「すべての知識は追憶に他ならず」「すべての新奇なるものは忘却に他ならず」と語りもし、無名の書物たちの掘り起こしに尽力された人でもある。

現代社会に「著作権」なるものが大手を振るようになったのは1970年前後のようで、それ以前に巻き起こった過去の文化の掘り起こしであり、民衆史の発掘でもあった「フォークブーム」の反動のような形で、「フォークブーム」の発信地アメリカを始め、世界的に「著作保護」が法制化されていった。

クラシック音楽のドボルジャーク、ラベルなどの「民謡」の編曲に限らず、近代における文化の搾取の憂き目にあっていた第三世界がこの「著作保護」に黙っているわけもなく、未だに続いているボサ・ノーヴァのジョアン・ジルベルトの初期作の著作権裁判などはよく知られた話でもある。

「先進国」の「著作保護」に対し、音楽ではレゲエやラップなどでどこまで「加工」すれば「オリジナル」なのかを競うジャンルが生まれもしたし、総合芸術とされる映画はどの部分が誰の著作か問う裁判が絶え間ない。

ボルヘスが問う「署名」の矛盾とはこの世の中にその人だけが作り出す「オリジナル」などあるはずがなく、誰かしらの影響や感銘を受け、「語り部」として語り継がれるのが「著作」であり、歴史の継承の証ではないのかという視点であろう。

日本神話の黄泉の国の話はギリシャ神話の「オルフェ」と類似しているけれど、そこに語られる事を「剽窃」などという論議でみていくと、事の本質を見失う。

大手企業のアイデアが中小企業のアイデアの盗用であるなどはよくある話で、ミニシアターの映画館主が、幕間をなくしたのも、レディスディを企画したのもミニシアターの苦肉の策なのに、シネコンがマネをしたという話を聴きもする。

文化の源である大道芸も「流行」のコピーから始まり、そのエネルギーが次なる文化を生むといわれているのに、「著作保護」により、新たな「オリジナリティ」はその限界に達しているとも云われ、映画の都、ハリウッドでも旧作リメイクや第三世界の監督たちにハリウッド映画を作らせるという異文化混合の試みがなされもしている。

ミッキーマウスを越えるキャラクターを生み出せずに「著作保護」延長をごり押しするディズニーなどの話もあるし、日本では「映画監督は映画の著作権者ではない」とする配給サイドよりの法律もあり、企業のための「著作」がますます強くなっている。

「著作権」を行使するならば、廃刊、廃盤などで触れられなくなった「著作」の「見る権利」を補償しろと云う話も聴くし、字幕や音声などで文化物に触れられる機会を得られるようになった障がい者たちが「著作権」により疎外されている事例もある。

「語り部」文化を嫌うことに対し、ボルヘスが「本に署名する事はおかしな事だ」と語る事はもっともな事と思うし、文献の引用頻度で、文章価値を競う価値観もあるらしい。

文化を如何に共有するかは、その時代の豊かさのバロメーターなのに「俺、俺」主義の「著作保護」は今なお大手をふるっている。

2008-08-21

スマートフォン Smart Phone

ヤフオクで、同じ北海道からの出品というので、送料も安く済むと思い、落札出来なくともと悪戯心にAdvancedW-ZERO3[es](WS011SH)を入札したところ、落札してしまった!

これでまた余計な出費をしてしまったけれど、使いこなせるかな?

来年に始まるという次世代PHSに対応していなければ、(涙)なのだけれど。

  • ウィルコムストア0
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2008-08-16

元ちとせ Chitose Hajime

今宵は石狩新港でRISING SUN ROCK FESTIVAlL 2008 in EZO

いたこさん、元ちとせも来るとの事で、見てみたい気もするのだが・・・。

先日、ヤフオクで落札した新譜『カッシーニ』もちょうど届きいたことだし、まずは耳満足で我慢するか。

YouTubeにて元ちとせ様を検索すると以下のおもしろセッションを見つけた。

矢野のお姉さまは元ちとせの将来かも知れない。(笑)

定番曲もお付けしておきます。

2008-08-15

ストリートビュー street view 2

お休み日とお盆の休みが重なって、損した気分の夏休み。

Googleマップのストリートビューの関心が高いようなので、続報報告。

ストリートビューの使い勝手を試してみると、それぞれの地点での画像回転はマウスドラッグでほぼ360度回転見回せるようで、撮影者の足下のみが写らないみたい。ただ、上空まで移動し、そのまま、向かいの建物を逆さに見せるなんて云う事が出来ないのが残念ですね。

ストリートビューをドライブ感覚で移動していける機能もいろいろ見ていくとやはりクレームが多いのか、ところどころ画像削除のブランク地帯があったり、移動しているはずがとんでもないところへワープしたりする箇所を見つけもした。

そんな操作をしている時、個人を特定出来ないように、顔はぼかすというストリートビューの趣旨は判るけど、個人は顔だけで判別する訳じゃないという当たり前の事に気付かされた。

よく知った知人がひょんなところでその特徴ある姿形を映しているではないか。

あら、お兄さん、何やってるの。

プライベート保護がいくら配慮されたとしても、知り合いはそれぞれの特徴を掴んでおり、写った人を見分けるもの。

写る人物はすべてぼかしが入りゃなきゃ、クレームのタネになるだろう。

街頭ポスターなどがぼかされていて、選挙事務所の名前がはっきり判別されるのも、場所の目印なのか、個人の特定なのかもボーダーだろうし。

時代を先行くするGoogleもべらぼうなコストと引き替えに、無謀な事を始めたものだ。

今のところ、日本の他は、アメリカ、オーストラリア、フランスが公開されているようで、日本でも東京、横浜、大阪、京都、仙台、札幌のそれぞれ近郊と限定されているみたいだけど。

ひと月前後の行動範囲で知られたくない場所での激写をされていないか要チェックだけれども、アクセスすればGoogleの利益。

「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」Google社会貢献に奉仕する時が来たようである。

2008-08-13

ストリートビュー street view

アルバイトの後輩から聴いたGoogle ストリートビュー。

試してみると、友達の家が丸見え。これ、やばくない?

「ブーム」ではしゃぎたがる奴らはプライバシーなんかクソ喰らえと喜ぶんだろうけど。

mixiの日記を検索すると、自分チの前の画像を載せて、来る日が判っていればお尻を見せてあげたのにと書いていた。(笑)

家はまだエリア外だから、載っていないけど、「Google ストリートビュー お断り」と立て札でも立てとくかな。

出刃亀ばかりが流行る世の中、ストリートビュー・ストーカーなんていうのも流行るのかも。

2008-08-12

自分供養 It holds a service of me.

実母が亡くなり、35回目の命日。

先週からの夏の疲れは夏風邪となり、しつこい咳、鼻水に悩まされ続け、まだ残っている。

今日は仕事後、叔母の家に寄り、ススキノど真ん中にあるお寺さんに納骨してある実母と養父の墓参り。

実母が8月12日、養父が12月12日と月命日が同じ日で、実母の命日には僕の誕生日である11月28日の数字が全部入っている。

仏供養は自分供養とも思ったりするけど、お墓参りの帰り道、赤い灯、青い灯の極楽通りに迷い込まないように気をつけなきゃ。

2008-08-10

糸 String

「お前ら国が認めた馬鹿だ」といわれ、虐待、セクハラ受けた水戸アカス紙器事件。知的障がいであるがために被害者の訴えに信憑性なしとされ、地域の実力者でもあった加害者にお咎めなしの判決が下されたこの裁判は、テレビドラマ『聖者の行進』としてドラマ化されたので、ご存じの人も多いかも知れない。

その主題歌「糸」は中島みゆきが歌っていたけれども、後にBANK BANDがカバーしている。

友だちとそんな話をするこの頃、身近では障害あるなし問わずの共生社会の試行錯誤が繰り返される。それは人と人の接し方が安易に論じられる現代だから起こる苦悩だと思う。

人と人が織りなす糸が交わるようで交わらず、社会をくるむ布にすらならずに、糸だけが散らかるような。

効率と能力の綱引きで、パニックを起こすのは能力を求められる人たち。便利さの中に生きる我々はいつの間にか人に対して、効率のみ求める機械になっているのかも知れない。

2008-08-09

オリンピック・ドキュメント The Olympics document

豪華華麗に始まった北京オリンピック。資本と文化の融合であり、激突でもあるオリンピックは個人、団体の競技が「国家の名誉」に置き換えられるイベントでもある。

古くはベルリンオリンピックをドキュメントした『民族の祭典』『美の祭典』のように各競技の模様が全体主義的に映し出され、物議を醸し出した話などはその後の「オリンピック・ドキュメント」にも数多くあり、競技が個人、団体のものなのか、国家のものなのかというのは永遠の議論である。

フランスのグルノーブルオリンピックを描いたクロード・ルルーシュ監督『白い恋人たち』では資本の力にあらがう分断され、大国の選手として闘う小国の選手たちに「彼女の演技を彼女の国の人はお金に換算する。得意のコンピューターで、山分けを計算する。分断され、祖国を失った人は自尊心のため、闘う。」とエールを送っていたし、市川崑監督の『東京オリンピック』は競技の模様を通し、戦後日本の民主主義的な復興を世界にアピールしていた。また、テロ事件を引き起こしたミュンヘンオリンピックの競技模様を映し出した『時よとまれ、君は美しい』は政治的問題を描こうとする監督たちとオリンピックの華やかさをアピールした制作側のせめぎ合いがあったと聞く。

僕が中学一年の時、札幌でオリンピックが開かれ、その時もまた、オリンピック・ドキュメントは作られた。

ちょうどその時のうちのクラス担任がスポーツ関係でなのか、オリンピックの開催に関わっており、授業の合間に、オリンピック競技のサポーターとして、出向き、会場でのエピソードを生徒である僕たちに教えてくれた。

スキーのジャンプ競技で、メダル獲得が本命視されていた選手たちを差し置いて、無名の選手が金メダルを取るという大きな番狂わせがあり、オリンピック・ドキュメントを作っていた映画スタッフは大慌てで、撮影していない無名の選手の金メダルを取る瞬間を再現するために、うちの担任教師も駆り出され、飛んでもいないのに、着地地点で飛距離の札を持ち上げる「芝居」をやらされたという。

この話を聴いてから、ドキュメントもまた作る側の作為あるもので、後に知った元新聞記者であるガルシア=マルケスの「ノンフィクションはノンフィクション作家が作り出すフィクション」とかいう言葉に共鳴を覚えたりしたものである。

オリンピックという祭りの中、参加した選手たちの努力を安易に「国家」レベルで論じる愚はいい加減やめにしたい。論じるなら、「寂しき地球人」として語り継ぎたいものである。

2008-08-07

ルージュ Rouge

身繕いを覚え、綺麗に見せる事に夢中になり、いつの間にか何のために身繕いをするのか忘れてしまう。

そんな哀しい人の性を唄った中島みゆきの「ルージュ」

ご主人が亡くなり、一切の芸能活動から身をひき、普通の小母さんになったちあきなおみの軽やかに唄うこの歌に切なさを感じる。

作り笑いがうまくなりました。ルージュひくたびに判ります。

判るうちが花なのだろうね。

2008-08-06

夏の疲れ Tiredness of summer

夏の疲れなのか、ほぐれかけた首筋の疲れ、肩凝り、背中の凝りで身体の奥底に潜んでいたいたものが一気に吹き出すかのように、昨日あたりから咳き込みがひどくなってきた。

咳の他に凝りの中に封じ込まれていたかのような痰が鼻水となり出て来もして、何ともつらい。

けれども、風邪のような熱っぽさはまだなく、体力消耗したら、夏風邪に直行なんだろうなぁとも思うから用心しなきゃとも思う。

人の身体には「病気の元」みたいな無数の病原菌が身体に潜んでいるという話も聞いたことがあるからなおのこと、要注意なのだろう。

連日続く真昼の真夏日は体力消耗だけれども、真夏日になっても未だに涼しい夜風は天の救いのようにも思えてくる。

咳き込みで、首筋の疲れから来ている呑み込みづらい違和感が解消されるような気もするけれども、この咳き込みは身体からのイエローカード、ここで無理するとレッドカードになるぞと云う警告のようにも感じられる。

8年ほど前、やはり夏の疲れからクシャミひとつで一月半歩けなくなったりもしたから、このイエローカードは侮れない気もする。

まずは今日一日様子を見て、自分の身体のぼやきに耳を傾けてみよう。

もう少し無理出来る。もう少し楽したい。もう少し食べられる。もう少し他人に冷酷になれる。

この世の中、自分自身が一番の無関心は自分の身体なのだから。

2008-08-04

暑中お見舞い申し上げます Visit the summer.

今週一週間は札幌も最高気温30℃の真夏日続きとか。

週末に行っている職場は機械交換の工事で、冷房なしだとお掃除おばちゃんがこぼしていたけど、こちらの平日勤務の職場も冷房なし、窓全開のエコ環境。

体力勝負の生きていればお慰み。

暑中お見舞い申し上げます。

2008-08-02

スターティング・フロム・スクラッチ in ロッテルダム Starting from Scratch in Rotterdam

月が変わり、8月。今年の夏はそれなりに暑くなったりしたけれども、どうも朝晩と昼の気温差が大きいような気がして変な感じがする。

先日、友達が主催した、今では存続の危機が語られている8ミリ、16ミリの上映会が、昔、映画館として使われ、今は各種イベント会場として再利用されているらしいところで行われたので、観に行ってきた。

建物の四階にあるそのスペースに行く階段はこんなに急だったかなというほど急で、自分の足腰の衰えを変なところで実感したりもしたけれども。

映写機のリールの回る音と、壁なのか、スクリーンなのか判然としない場所に写し出される映像、隣の人との距離を自在に調整可能だけれども、長く座っているとお尻が痛くなるパイプ椅子という一種ノスタルジックな雰囲気の中、上映会は行われた。

8ミリ映画の文化はコダックが主流の海外とは異なり、日本では富士フィルムが根強いシェアがあり、重ね撮りなどの表現法が手軽に出来き、海外だと16ミリにブローアップさせ、作品化するのに対し、8ミリの素材を生かした表現技法をそのまま作品として成立させる「日本文化」があるそうだ。この上映会も通常、DVやDVDとして上映するケースの多い海外の映画祭の中で、オリジナルの上映にこだわる今年の1月から2月にかけて行われたオランダのロッテルダム映画祭で上映されたプログラムという。

コマ落としや重ね撮り、フィルムの重ね合わせなど、僕自身、制作分野には詳しくなく、技術的には把握出来ていないけれども、デジタル文化にはない生のフィルムの映像文化を久々楽しめた。

上映後、語られたフィルム文化の面白みはデジタルの人気に押され、撮影機の生産中止、フィルム生産の減少により、利用者減で消えゆく文化でもあるらしく、主催の友人はフィルム文化を存続させる会の活動の一環としてこのイベントを展開しているらしい。

もしかすると、今この時が古今の多様な表現技法を取り組む作品群が観ようと思えば見られる唯一の時なのかも知れない。

フィルムの中に動めく傷の向こうにある明かりを求め、暗闇の中、数時間の共有。

今、失われていくものは、闇と明かりの境なのかも知れない。

スターティング・フロム・スクラッチ in ロッテルダムの日本における上映会は4月の東京を皮切りに、福岡、札幌と上映会が行われ、大阪での上映も決まっていると聴く。