2009-02-28

伝言 Message

高校時代の音楽の先生と職場で出会い、当時の同窓生の話題となり、うちの職場にも同窓会幹事の奴とか、元女将さんとか来ると話をしたら、その話で少し盛り上がっちゃった。

元女将さんのお母さんの絵を貰わなきゃとか何とか、云っておりましたぜ。

僕のクラス担任の話となった時、「確かあの先生、亡くなったと聴いた」とか云っており、こちらも小学から高校までの恩師の誰が亡くなり、誰が生きているのか忘れてしまい、「そうでしたっけ?」とか薄情な事を云ってしまい、帰宅後調べると健在で、今年も年賀を頂いている。

教え子も教え子なら、教師の同僚も同僚で、人を殺しちゃいけない。(笑)

まずは恩師のお一人は相も変わらず健在である事を伝言として。

BGMは「ジョニーへの伝言

2009-02-26

ハイエナ Hyaenidae

職場の近くのCD・DVDショップが閉店するそうで、閉店セールとして、全品半額の特売が行われているのを昨日の帰りに知り、店内を物色してみた。

本当にコレクションしたいものはなかったのだけれども、ネットオークションに転売しても売れそうなものがポツポツ。

今日は職場のサイトのお引っ越しに伴うデザインリニューアルを行い終えて、帰りに無駄遣いしようかどうか考え中。

衝動買いにならぬよう、物色してみようっと。(笑)

2009-02-22

制度はあれど、誰も動けず No one can move though there is a system.

友だちから障がい手帳を持っていて、世帯全員が非課税ならばNHKの受信料が全額免除されるみたいだよと教えられ、さっそくNHKに電話で問い合わせてみると、昨年2008年の10月に制度改正となったらしく、それ以前から重度障がいの半額助成を受けている我が家なども改めて住んでいる区役所に申請しなければ、適用にはならないと返答があった。

悪天候でもあり、書類申請だけならば郵送で手続き出来ないかと、電話で問い合わせてみると、非課税の証明が必要だから役所に来なければ申請を受けられないと云われ、動ける日もその日しかなかったので、無理して出かけていくと、一階の障害福祉課で関係書類を書かされ、二階にある納税課で非課税の証明を貰ってくるように云われる。

納税課では本人確認の上、世帯全員の納税に関する書類が出されるのだけれども、家の場合、高齢の母は収入が遺族年金だけで申告するものもないため、記録がなく、遺族年金だけであるという申請の用紙に記名を求められ、それでやっと世帯全員の非課税の証明が発行される。

その書類を持って、再度、一階の障害福祉課に出向き、貰ってきた書類を先に書いた書類と合わせ、NHK指定の封筒に入れ、ポストに投函するように云われ、やっと手続き完了。

個人情報保護の観点から課税に関する書類は当人が申し出なきゃ出されない仕組みのようだけれど、こちらは仮にも重度障がいと認定された身の上、申請者が動き回らなきゃ何も出来なく、書類至上主義となっているお役所体質にはうんざりさせられた。

せっかく作られたよい制度もこのケースと同じく、すでに改正前の制度を利用しているのに、知らされないとか、本人が動かなきゃ適用されないとか、書類の簡略化、人権の削減、ITの活用など御題目はたくさんあるのに、それで利用者にメリットとなる活用法が提案されないまま、制度だけが成り立っているケースは法整備大国のこの国は山ほどあるとも聴く。

制度はあれど、誰も動けずは制度がないに等しいのに、知らない者は莫迦を見て、知った者勝ちがまかり通る社会システムがこの国の政治、行政にはあるような気がする。

2009-02-21

いのちの長さは誰が決めるの Who decides the length of the life?

映画『ブタがいた教室』で子供たちは「いのちの長さは誰が決めるの?」と議論をする。「殺すのと食べるのは違う」という意見も出る。

台本なしのやりとりを見聞きしながら、以前読んだ岡林信康の「バンザイなこっちゃ!」で紹介されるベトナム難民のボートピープルの父娘の話を思い出す。

ベトナム戦時下、戦火をまぬがれるために難民船でベトナムを脱出した父娘は飢えと渇きの極限の中、娘を残し、父は死んだという。その父の遺体を同じ飢えに苦しむ人々が食べ始めるのを娘は一部始終見、それがアメリカに渡った後、成長するにつれ、重いうつ病となりあらわれ、カウセリング治療により、死んだ父が「私を食べて生き延びるんだ。死ぬんじゃない」と皆を励ましているような光景を見、娘は立ち直ったという。

自然界では殺す事は食べる事であるのに、人間はいつしか殺す事と食べる事を分けて考えるようになってしまったのじゃないか。他の動物は無闇に殺し合いはせず、満腹時には獲物が目の前にいても襲わないと聞く。食べもしないのに殺すのは人間だけ。そんな話を幼い頃、学校で聴いた記憶がある。

映画『ブタがいた教室』に出てくる小学6年生は一クラス26人。原作「豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日」は一クラス32人、今50歳の僕の子供の頃は46人学級だったので約半分強の子供たちが「いのち」について語り合うけど、誰も飢えは知らない。

無闇に殺す事と殺したいのちを食べ頂く事の違い、それをもっとこの子等とともに知りたいと思いもし、二時間弱に描かれたこの命の授業900日の中、豚のPちゃんは子豚から大人の豚に成長していっている。一クラス26人の子供たちもよくは判らないけど撮影時間の間、大人になっているのだろう。それは「食べている」証でもある。

食糧自給率40%を切るのに、残飯として出される量は世界一という日本、妻夫木先生が「頂きますも言えない子供たち」と語るこの子等は大人たちとどう違う生き方が出来るのだろう。そんな事を思いながら、映画を観た。

2009-02-19

びっくり Surprise

仕事帰り、あちこち寄って、財布を見ると残金が心細くなっていたので、郵便局に寄り、ATMで一万円、千円札で下ろそうとしたら、何を間違ったか、千円札100枚がATMから出て来た。

こんな札束持ったの始めてとちょっと感動しはしたものの、閉店間際のATM、こんな分厚いものを持ち歩く度胸もなく、急いで使う分10枚を除けて、ATMへご返却。

障害年金出たばかりなので、思いもしない千円札100枚とのご対面と相成ったけれども、ATMへお帰りの千円札100枚を見送る気持ちはちょっと複雑。

こんなノミの心臓なのに、「当たれ!宝くじ」とばかりにグリーンジャンボを買いもしたけど、一万円札一万枚とのご対面は想像を絶する気持ちになるのだろうなぁ。

生まれて初めての札束体験、癖になりそうな悪魔の誘惑のようで何だか怖い。

2009-02-17

認証サービス Authentication service

ネットショッピングでクレジット決済しか出来ないサイトがあり、購入手続きをすると、認証システムでパスワードがとおらずに、エラーが出て、決済できなく、カード会社に問い合わせてみると、たまに「ロックされる」エラーになることがあるとの説明を受けた。

その回避方法を問い合わせるのに、地元にあるサービスセンターでは対応しておらず、テレホンサポートのみの対応で、電話受付も午前9時から午後6時までと就業時間と重なるためになかなかネット環境のカード決済のサポートは受けにくいのだなぁと改めて実感。

うちのネット環境はMozilla Firefoxを使っているので、認証システムがIEのみを視野に入れているならばのエラーなのかもと思うけど、その辺の注意も認証システムでは示されていない。

直接面談するサービスセンターでは取り扱わずに、電話のみのサポートで、しかも応答時間が限られており、ネットを介しての問い合わせもないクレジットの認証システムって、日本はまだそんなに活用されていないのだろうか?

利用者の使い勝手に配慮していないようなシステムがまかり通っていること自体が古い体質のような気がする。

2009-02-13

永遠の絶滅収容所 Eternal Treblinka

週一の休みなので午前中は何かとバタバタし、観に行こうと思っていた映画の時間に間に合わず、久々に昼から街をぶらついてみる。CDショップで、毎月読むのを楽しみにしている名画座、蠍座のリーフレットの今月分が出ているのを見かけ、手に取る。

友だちも勧めていた映画『ブタがいた教室』を今、上映しているらしく、判っていれば、時間が間に合ったのにと悔やむ。封切り作品ばかりを気にして、名画座チェックをおろそかにしたバチだな。

そのリーフレットで、映画『ブタがいた教室』に寄せて書かれた「快楽としての肉食」という一文は肉食は不可欠のものではないとする内容にそうなのかな、けど、映画『おくりびと』のように「美味しいから困る」何じゃないかなとも思ったりもしたけれど、その中で紹介されている「永遠の絶滅収容所」(緑風出版)という本の一部抜粋にはとても感じるものがあった。以下、孫引きの引用を一部載せてみる。

現代の屠畜場では「作業」はすべてライン化され、牛や豚たちはかき集められ、並ばされ、喉をかき切られたあと、逆さに吊るされ、血を抜かれ、内臓をほじくりだされて運ばれます。動物たちは目のまえでおこるその光景をすべて見ているといいます。そして何頭もの動物たちは、自分の順番が近づいてくると実際に目から涙を流すというのです。

映画『ブタがいた教室』は食べるために育てた豚を殺す時、教師と生徒がディスカッションするところが台本なしの疑似ドキュメントで、教師役の妻夫木聡も素の顔が見られるという。

答えを求め、安心したがる時代、生きるために食べ、食べるために殺す。この当たり前の論理がおかしいんじゃないかと考える理論がある事を知った。

北の国、札幌は今年何度目かの冬の雨。異常といっておかしくない気象状況は動植物に異変を生み出していると聴くし、それは殺して食べる人間の飢えにも及ぶとされている。

自然の循環作用が壊れた時、おそらく答えが分かるのだろう。

永遠の絶滅収容所」読んでみたいけど、価格が高く買えないし、図書館にも置いてないようで、どなたか買われたら、貸して下さいな。(笑)

2009-02-12

数多くのベトナムをつくるために many Vietnams flourish throughout the world.

映画「チェ二部作」は悪くはないけど、通してみるとゲバラの人生のポイント点のみを描いた感じがする。

人生の晴れ舞台で人民解放を果たし、国連で演説を打つ「28歳の革命」とキューバを後にボリビアにて貧者の争いの末に殺される「39歳 別れの手紙」

ここでゲバラの思想の核となるであろうアフリカ・コンゴの挫折が省かれているのが気に掛かる。

映画の帰り道、やはり「39歳 別れの手紙」を観た若者が一緒に観に行った女性に語っていた単に28歳、39歳で分けて観せる事への違和感が何となく納得出来る。

革命前夜と革命の闘いと革命後の演説の往復からなる「28歳の革命」はやはり観せるための手段にしか過ぎなかったのかも知れないと、「39歳 別れの手紙」を見終えて思いもするし。

「数多くのベトナムをつくるために」とアフリカ・コンゴからボリビアに入ったゲバラは、アメリカがソビエトとの冷戦にスパイとして暗躍させた元ナチスドイツ親衛隊のクラウス・バルビーをかくまうため、顧問として送り込んだボリビア政府軍に追い詰められ、殺される。(映画「敵こそ、我が友」に詳しい)

強者アメリカは表向き姿を見せず、貧しい国家、貧しい人民たちが利権を相争う世界でゲバラは殺される。

ゲバラの死後もなお、ハイチは独裁政権が続き、軍事政権だったブラジルでも言論弾圧が強まり、チリでも軍事国家が誕生し、青空の下、ラジオが「サンティアゴに雨が降っている」と世界に発信された。

ボリビアでは先住民の女たちの子宮摘出が行われ、それに対する怒りの映画集団ウカマウがゲリラ的に映画を撮り続ける。

キューバ革命50周年の節目はゲバラ死後40数年を振り返る時でもあり、「チェ二部作」で描かれなかった寂しき地球人の孤独な現代史を思い返したい。

「39歳 別れの手紙」のエンディングに流れるヌエバ・カンシオン(新しい歌)の母、メルセデス・ソーサの歌「バルデラーマ」(Balderrama)が4時間以上に及ぶ映画以上に今のラテンアメリカの悲劇を語っているのに、歌詞字幕はつけられなかった。

映画の中、村には病院がないという事は死ねという事だろうと繰り返し語るゲバラの言葉は、映画「10ミニッツ・オールダー」の中でヴィム・ヴェンダースが描いた「トローナからの12マイル」を挙げるまでもなく僻地医療が切り捨てられていく先進国といわれる国々に当てはまる事でもあるのだし。

「数多くのベトナムをつくるために」祖国か、死か。これらは今日のテーマだろうし、何故、怒らないと問うゲバラは今も生きていると思う。

2009-02-10

共済補償 Mutual aid amends

火災保険の満期で、紹介してくれた知り合いも保険勧誘から退いているので、お得な損害保険がないかといろいろ調べていくと、共済補償というものが同じ補償で掛け金がお得ということを知った。

共済補償でよく知られたものとして、全労済と都道府県民共済があり、全労済はその共済を取り次ぐ形で取り扱っている生協COOPと微妙に仕組みが異なるようだし、よく聴く「生活協同組合連合会」も複数あるらしい。「日本生活協同組合連合会」は生協COOPであり、「全国生活協同組合連合会」は都道府県民共済であるようだ。

利益追求をしない事をうたい文句にしているので、余剰利益は年度決算で利用者に割増金として支払われるのも魅力で、掛け捨てとなる実質掛け金も年トータルで安くなるようである。

火災保険の場合、その加入限度額が全労済の場合は世帯を構成する年令や人数で変化するのに対し、都道府県民共済は単に世帯人数で限度を設定しており、我が家の場合、全労済だと1,800万円なのに対し、都道府県民共済は800万円と開きがある分、掛け金も違ってきている。

災害時の被害補償がどれだけ必要なのかはまるで見当がつかないだけに安心を求めるためについつい補償額を大きくしてしまうような気もするし、今まで入っていた損害補償額が安いものだったので、都道府県民共済でいいかと、契約してみた。

資産運用が不安定な時代、利子が魅力でついついバーチャルマネーのゲームにはまる時と違い、共済補償のようなより安い、より戻りがあるものを選ぶのが人の常だろう。

グローバル社会が更なる格差を作り出す今後、低リスクなものへのニーズは強まると思うのだけども。

2009-02-09

雪降りまつり Snowfall festival

例年になく雪が少ない今年の冬も札幌雪まつりに合わせるように、週末は雪が降り積もり、まさしく雪降りまつりを味合わせてくれた。

仕事あと帰宅時の雪かきは日頃の運動不足のたたりなのか、老化の始まりなのか、大した雪でもないのに足腰がきつい。

よく行く銭湯には外人さんが目立つようになり、昨晩はアフリカのザンビアから来たらしい黒人のお兄さんがサウナ、電気風呂に挑戦していた。いつも思うのは黒人さんの足の裏は何故黄色の我々と似た色をしているのだろう?

今夜は銭湯帰りに雪まつり会場の今年の国際雪像コンクールをちらり見て回ってみた。

雪降りまつりも雪まつりと一緒に終わる事を願いつつ。


  • 今年の国際雪像コンクール優勝作

2009-02-07

バンコクから地図で20cmのところにある日本 Japan from Bangkok that exists in 20cm in map

映画『闇の子供たち』はロリコン、アジア蔑視など様々なテーマを抱えながら、本題の臓器移植の問題が何故かスルーされてしまっている。

適切な臓器移植を受けられない日本の子供たちはタイの子供たちと同じく人権を持たない子供たちなのに。

2009-02-06

酸っぱいチェリーと苦いオレンジ Sour Cherry and Bitter Orange


ハリス・アレクシーウ「酸っぱいチェリーと苦いオレンジ」
おしゃれなCDケース

雪祭り開催とともにいつの年になく少なかった雪が降りしきる一日、ちょうど休みでもあり、確定申告の用紙を提出し、あちこち廻って、映画『チェ 28歳の革命』を観に行く。

昨年の暮れに通常だと高くて買えないギリシャ歌謡のCDがネット販売で20パーセントオフのセールで売っていたので買ったのだけれど、何故か雪の降る日はこれを聴きたくなる。

今日もそのギリシャ歌謡の大御所、ハリス・アレクシーウとヨールゴス・ダラーラス、お二方のデープな歌が雪の舞う街にぴたりとはまる。(笑)

西欧のキリスト教の音階と東欧ジプシー・クレツマーのメロディ、トルコから強制帰還させられたギリシャ人たちが望郷の念を抱き、歌ったアラビックなこぶし回しと、ミクロ・アジアといわれる彼の地の歌謡は、エーゲ海の青く澄んだ開放的なイメージとは裏腹に、バルカン半島の陰影を歌い継ぐ。

ギリシャは自国文化を海外から守るかのように、音楽の輸出をほとんどしないと、CDのライナーには書かれてある。べらぼうに高いCDの発売権をスペインの業者が買い付け、いくらか安く販売しているものに背帯、ライナーをつけて、日本で発売したという。

ハリス・アレクシーウとヨールゴス・ダラーラス、お二方ともワールド・ミュージックが持て囃された1990年代に日本でもよく聴かれ、ハリス・アレクシーウは来日公演もし、ヨールゴス・ダラーラスはスティングとジョイントもした。その頃に僕もファンになった。

彼の地ギリシャの伝統的な音楽は流民の歴史を歌い継ぐもの。そんな歌は雪が風に舞う今日のような風景がよく似合うような気がする。

2009-02-04

捨てる人、拾う人 Person who throws it away and person who picks it up

昨夜、節分の夜、帰り道、スーパーの前で、鎖につながれた一匹の犬を取り囲むように、警察官とおばさんが立ち話をしていた。どうしたのかなと眺めながらも用を済ませるために通りすぎたのだけれども、その場所に戻った時にはおばさんの姿はなく、鎖につながれた犬は警察官に連れられて、お迎えのパトカーに乗るところ。どうやら、捨て犬らしかった。

その後、銭湯にて、その日の疲れを癒していると、小太りのおじさんが風呂場にあるゴミ箱をあさり歩き、使い切ったシャンプーの容器とか、T字型のカミソリとかを拾い集めているのが目に入る。何をしているのかとそのおじさんの行動を見ていると、一通りゴミ箱あさりをしたおじさん、洗い場の一席に腰掛け、かき集めたシャンプーの容器に残っているシャンプー液を絞り出し、髪を洗い始め、拾ったT字型のカミソリでひげを剃り始めた。

昔よく聴いた「ドケチ話」にありそうな光景も目の前で見るのは初体験。

捨てる人、拾う人。どちらもとてもまねの出来ない、理解しがたいもの。

「鬼は外、福は内」それが反転したのがこの世の常なのかと思ったり。

2009-02-02

非合理な合理化 Illogical rationalization

毎週定期的にイベントが行われるとある建物。そこにも合理化の波が押し寄せ、その建物の清掃業務も随意契約から任意契約に変わるという話を聞いた。

今まではイベントが行われる時は、来客が多いためゴミ回収の清掃のみを行い、イベントのない日に、ワックスがけや窓ふき、手すりの汚れなどの大がかりな拭き掃除を行っていたのだけれども、任意契約に変わる事により、清掃業者との契約はイベント開催時のみとなり、清掃業務もイベント時だけになるという。

雇われている清掃業者の社員の方々も毎日仕事があったものが、イベント時のみとなり、その業務だけでは生活できない状況となり、建物もイベント開催の来客時のみの清掃となるため、ワックスがけや窓ふきなど乾かす時間を必要とするメンテナンスは出来なくなり、建物の清潔さや痛みの補修などで見落としが予想されるらしい。

経費カットの合理策らしいけれども、建物を維持管理し、清潔に保つという接客の基本を忘れたところにある合理化は果たして本当に合理的なのだろうかと思ってしまう。

採算重視の行く末は「不潔」となるならば、さらなる合理化でその建物も解体にまで行くだろう。

目先の採算性を追い求める企業幹部のエリートたちは、「無用の用」の合理性を知らない世間知らずなのだろう。

2009-02-01

生き残るために To survive

経費縮小のために職場に査察が入るらしい。企業として如何に生き残るかの模索をしなければならない時代だからしかたのない事なのかも知れない。

査察に来る人は企業が生き残るために、というよりも、自分の居場所を死守するために、そこに生きる人の仕事ぶりを天秤ばかりにかけてくる。

人の眼に公正などあり得ないし、企業という集合体ではその立場によって、仕事の必然性は異なってくる。

査察を行わなければならない状況を生み出した元凶を探らずに、そこに生きる人の仕事をなくす。

企業が、国が確実に衰弱していっている。

昨夜、格差時代、高齢化時代にふたたび脚光浴びているという岡林信康さんのテレビ番組を観た。

「チューリップのアップリケ」「君に捧げるラヴソング」「風詩(かぜうた)」「虹の舟歌」皆、逆境の中、生きる人に歌われた歌たちだけど、この頃、僕が愛聴するのは岡林信康さんの家族を歌った歌たち。

アルバム「ベア・ナックル・ミュージック」の、余命宣告されたお父さんを見舞う家族を歌った「'84 冬」の中、まだ小さい我が子に「お父さんがいつかこんな風になった時、優しくしてくれるかい」と聴くと、我が子はそれに応えずに泣き出したと歌う。

衰弱する者たちの前で、自分の将来を思い描き、その命を託す者に問う時、その社会のぬくもり具合が見えてくる。

生き残るために、如何に人を活かすか考えなければ、生き残る事など出来ない。そんな風に思う。