2010-08-31

震災忌 Day of earthquake

友だちブログを読むと、「那覇VS札幌本日最高気温31℃対32℃で札幌の勝ち。嬉しくないーーーーっ」とか。確かに。

数年前、今の若者は自分のことは理解して貰えないと思い、そのくせ、人のことは無関心と云われてたけど、この猛残暑の夏、週末の職場ではトイレで全裸の婆ちゃんが現れるなど、驚き、桃の木、21世紀なことが増えている。

人と人はどうすれば繋がれるのか、涼しくなれば分かり合えるのか、そんなことを思いつきで考えつつ、「最後の言葉 戦場に遺された二十四万字の届かなかった手紙」を読んでいる。

「ただいま」を云えなく死んでいった20歳前後の若者たちの残された日記と60年ぶりに再会する親族たちの物語を読み進むうち、震災忌である9月1日であることに気がつく。

南洋の島々で、飢え、マラリアに冒され、炎天と爆撃の中、死んでいった人たちはどんなに苦しかったろうと思うと共に、大正俳壇の富田木歩と新井声風の関東大震災の大火の中、逃げまどうことも出来なく、死んでいった人たちは人を思い、亡くなられたことを感じ入る。

「誰かを思い、あなたは死ねますか?」

戦火、震災下亡くなられた人を思うと、逆に今の「孤独死」の寂しさが胸に刺さってくるような気がする。

大正俳壇の富田木歩と新井声風のお話を花田春兆さん著作「日本の障害者―その文化史的側面」より。

木歩最後の日、大正12年9月1日。関東地方が未曾有の大地震に襲われ、東京の下町一帯が火の海となった日も、二人は最後の最後まで行動を共にすることになる。地震発生直後、実家の安全を確認した声風は、友の身を案じて直ちに浅草から向島へ駈けた。妹たちの手で辛うじて家の近くの空き地まで運び出されたものの、そこで途方に暮れていた木歩を探し当て、兵児帯(へこおび)で背中に括り付けて、ともかく火の来ない方へと逃げ始めた。だが、行く先々に新しい火の手が上がり、浅草方面に渡る橋も焼け落ちているらしい。大の男の声風にしても疲れてくるのは当然だった。妹たちを先に行かせて暫く、声風は川の土手の上に木歩を降ろした。木歩に食い込んでいた兵児帯は容易に離れなかった。一服する間もなく、危険はそこにも迫っていた。土手に逃げた人々の荷物が火の粉を浴び、煙を上げ始めたのだ。凄まじい熱気と人々の悲鳴。いよいよの時が迫っていた。"もういい、十分だ。俺を置いて逃げろ、逃げてくれ"木歩の瞳が必死に訴えていた。万感の思いで握手を交わして、声風は川へ身をおどらせた。ようやく泳ぎ着いた声風が振り返った土手には巨大な火の帯が走り、一瞬の後死の世界と化した土手に動くものは何一つ無かった……。

2010-08-30

人夫と大工 Laborer and carpenter

8月も終わろうとしているのに、蒸し暑く、今日は戦後観測開始以来初の最も遅い真夏日になった札幌。

築数十年の借家は、週末、大家さんの配慮で屋根のペンキの塗り替えがされたけれども、この蒸し暑さからか、流し廻りに小さな蟻が出て来ていて、流し口の下水口も水漏れがするなど、あちこちでトラブル続き。

年老いた母は自律神経を患っている割にはタフで、仕事で家を空けている僕など当てにせずにそのトラブルと闘っている。

そんな中、今日はひょっこり大工をやっている従弟が顔を出し、家廻りの大工仕事をやっていってくれた。

ちょうど僕も休みで家にいたので、久々話をすると、厳しいこのご時世の話が飛び出してくる。

「身体ひとつの人夫と工具一式持った大工の賃金格差がなくなっちゃって、工具一式持ち出し分だけ、大工の方が厳しくなっている。」

そんな話を聴く時、依頼側の方の経費感覚がすっかりなくなっているのだなぁと痛感する。

パソコン作業でもパソコンは持っていて当たり前で、依頼した作業で使う経費という感覚がクライアントにないのと一緒なのだろう。

更にネット時代、安い労賃で請け負う会社を探し出し、帯広の業者が札幌まで出張旅費なしで仕事を請け負うというサバイバルな話を聴くに至ると、今のご時世のワーキングプア度が見えてくる。

けれども、当のワーキングプア世帯が自身がワーキングプアだと自覚していないケースもままあり、障がい者のA型就労事業に勤めている方で、最低賃金の生活ながら、ワーキングプアと思っていない話を聴かされ、切迫感の稀薄さに空恐ろしさを感じもしたことがある。

人は何を持ってハングリーと感じるんだろうね。

2010-08-27

障がいは人になく、差別が人にある The person doesn't have disability but the person has contempt.

北海道行政書士会の「北海道障がい者支援フェア」に行ってきて、そこでの講演を聴き、「障がいは人になく、差別が人にある」なのだろうなぁと思った。

北海道が制定した「北海道障がい者及び障がい児の権利擁護並びに障がい者及び障がい児が暮らしやすい地域づくりの推進に関する条例」という長い名前の条例の趣旨を話された講演では、地域づくり、就労支援、権利擁護にまとめられた条例の骨格が示されたけど、このような公共の集まりの講演会で難聴者向けの手話や筆記字幕がないのが、差別にあたるとした、講演者の説明が、差別とは何なのか、最も判りやすい例と思った。

知り合いの行政書士さんがその後、講演をされ、「社会モデル」と「医療モデル」という昨今よく語られ、制度改革の主軸にもなっている理論を紹介されていたけど、要は「障がいは人になく、差別が人にある」なのだろう。

段差があるから車いすで動けない、その段差が障がいである。背が低い事をコンプレックスに持っていた人が、演劇を志す人たちと知り合い、コンプレックスは様々な個性でもあることを知った。

つまりは「社会モデル」として克服出来ることと、「医療モデル」として克服出来ることなのだろう。

大型スクリーンに映し出されたカラフルなプレゼンテーションと同じものがモノクロ印刷で配れていたけれども、カラフルなものをモノクロに印刷すると文字が潰れ、読みにくくなる箇所が何カ所かある。それが色弱に配慮したカラーユニバーサルデザインという話を聴いたことがあるけど、そういう配慮はカラフルなものがあふれる現代、モノクロ主流の数十年前より配慮が劣っているのかも知れない。

「北海道障がい者支援フェア」と同じく教育文化会館で上映会が行われていた「ジョニーは戦場へ行った」は第一次世界大戦で意識ある肉塊”と化したひとりの青年の回想劇。モノクロの現実とカラフルな回想で、戦争で死ねなかった青年の苦悩を描いた映画。久々に見たかったけれども、自分の体調を考え、見なかったけれども、「障がいは人になく、差別が人にある」と云うことを中学生だった僕に教えてくれた映画。

「障がいのある人もない人も」などという優生思想が蔓延する現代、「障がいのない人」とはどんな脳天気な御仁なのか、「犬も歩けば棒に当たる」障がい価値観を忘れたくはないなぁと思った一日でした。

2010-08-24

JIS X 8341-3:2010

Yahoo ニュースでも、Google ニュースでもヒットしない最新ニュースのキーワード「JIS X 8341-3:2010」。

ウェブアクセシビリティの専門サイトチェックしに行くと、「8月20日:JIS X 8341-3:2010が公示」というニュースがあり、遅ればせながら、JIS規格の公示を知り、さっそく、規格書を購入申し込みした。

第二次大戦後に生まれた団塊の世代が高齢化し、先進国では例外なしに少子高齢に向かいつつある今日、「高齢者・障害者等配慮設計指針情報通信における機器,ソフトウェア及びサービス―第3部:ウェブコンテンツ」という長い御題目を掲げ、加齢障害をも視野に入れた配慮指針は、国際規格として知られる「ウェブコンテンツ・アクセシビリティ・ガイドライン (WCAG) 2.0」をその配慮基準とするという国際化の先駆けを目指して作られた割には、世界で最も高齢化の進む国のマスメディアは無関心という面白おかしい状況を露呈しているようで、面白くも思った。

JIS X 8341-3:2010に関しては、ことのは舎JISアクセシビリティ検証の動きもあり、その成り行きが気になり、少し勉強してみようかとも思うのだけど、高齢化の加齢障害知らずの社会にどれだけ広まるかが気に掛かる。

老いて介護を他国の人に願うように、情報通信もまた配慮なき人任せにゆだねたいのだろうか?

フリーターの若者に「この国は本当に大丈夫なんですか?」と問われ、「さぁ、メディアの配慮次第じゃないの」答えてみたものの視界は確かに悪そうですなぁ。

2010-08-23

雨に唄えば Singin' in the Rain

札幌の中心部にある地下街の設備点検の日に合わせたかのような土砂降りの雨の日、地下街が通行止めということも忘れ、街に出てきて、土砂降りの雨の中、歩く羽目になってしまった。

土砂降りの雨は嫌いではなく、「雨に唄えば」のジーン・ケリーにはなれないけれども、気持ちがよい。

この気持ちが高じて、「時計じかけのオレンジ」のような乱痴気騒ぎになるほど、おろかでもない。

土砂降りの雨の中、露天風呂で、激しい雨に打たれたくて、スーパー銭湯に行く。

マイナスイオンを浴びてる心地よさからか、ゲリラ豪雨にならないかと、空を見上げる自分はそれでもやはり愚か者なのだろう。

そのうち、「マグノリア」の蛙の雨が降りしきるのかもと思ってみる。

「雨に唄えば」 | 「時計じかけのオレンジ」 | 「マグノリア」蛙の雨

2010-08-21

私が知らない私 I whom I do not know

小泉小父様がイラクで日本人が拉致された時に云いだしてからだと思うけど、「自己責任」というのがなんか今の世の中、一般化しているみたいで、「自己責任」転じて、「人のことは判らない」「言わなきゃ判らない」と自分の人に対する無関心ぶりを肯定する風潮が当たり前になっている感じがする。

「人のことは判らない」「言わなきゃ判らない」から、孤独死も多くなってきているし、虐待だって、泣きわめいたって、うるさいとしか感じなくなっているんだろう。

たまに行く銭湯の女将さんが先日、僕に「やせた?」と聴いてきた。

食欲はあるし、お腹の出具合が気になるので、やせたという感覚はなかったけど、例年にない猛暑で、疲れが取れにくく、夏バテ気味かなとは感じていたので、女将さんにそんな話をすると、「ちゃんと食べているのなら、いいけど」と返された。

相手に対するちょっとした関心が、云われた方には自分を気付かせてくれることがある。

選択権に対する「自己責任」を一国の総理が云いだしたことで、「無関心」が当たり前の事になった世の中、やはり安易な風潮は根付くのだろう。

寄り添いあうところから「人」という漢字があり、目に針を刺し、廻りが見えなくなるところから「民」という漢字があるという。

私が知らない私を教えてくれるのは隣の人。こんな歌詞が思い浮かぶ。

「誰だって旅くらいひとりでもできるさ
でも、ひとりきり泣けても
ひとりきり笑うことはできない」
中島みゆき「With」より

2010-08-19

現況届 Report at current state

友だちと助成手続きの話をしていて、そういえば、今月が誕生月である母の年金の現況届けを出していなかったことを思い出した。

そういう役所への届出に関しては無関心の母のこと、現況届けが届いていても、気がつかずに積み上げられた郵便物の中に埋もれているかも知れない。

出先で気がついたことだから、忘れないように自分にその件をメモ書きして、メールし、帰宅後、母に聴いてみた。

届いていないという母の言葉を聴きつつ、念のため、積み上げられた郵便物を確認してみても届いていなかった。

そして、今朝、やはり気になり、「年金 現況届」でネット検索してみると、以下のお知らせページを見つけた。

おそらく年金受給の世帯にも郵便でも送られてきているんだろうけど、住民基本台帳の活用ネットワークが着実に活用されて来ているんだなぁと思った。

そういえばこの頃、やけに亡くなった人への年金支給の問題がテレビニュースに流れており、多分、住基ネットの有効性をPRするのに一役買っているのだろうなぁと思いもした。

便利さを享受しつつ、知らない間に個人情報が集約、管理されていく。それがなんか恐ろしい気もしつつ、ネットでささやかれる「便利さは原子力発電があるから」というまことしやかな嘘と同じ質のものようにも感じたりする。

クリーンエネルギー」などのユニバーサル・デザインを模索せずに安易に、今あるものの正当性を語るのは、ちょっと戦時中の「日本が負けるわけがない」という風潮に似ていているような気もする。

2010-08-17

ラ・ディフェロンス La Difference

もしもきみが私を愛するなら
それはきみが黒人を愛しているということ
黒人は私を愛する 私は黒人
もしもきみが私を愛するなら
それはきみが白人を愛しているということ
白人は私を愛する 私は白人

自身、先天性の白皮症アルビノであり、マリの王家に生まれながらも、生家を追われた神の声を持つといわれる歌手、サリフ・ケイタが、同じアルビノであるがために、アフリカで惨殺され、遺体を売りさばかれている事件が多発している事に対し、赤十字と共同で、「関係各国政府は犯罪者に法の裁きを受けさせるなどといった、なすべきことを十分に行っていない」と抗議声明を出したという。

今年初頭に出された最新アルバム「ラ・ディフェロンス」を入手し、聴くと、サリフの祈りの歌が流れ始める。

日本に迷信的な民間宗教として「白蛇は神様の使い」というのがあるけれども、アフリカ東部タンザニアでは、「アルビノの身体の一部を使って呪術の儀式を行うと金持ちになれる」との迷信があり、アルビノの手足、臓器、血液が呪術師に売られ、それらを調合してお守りを作られているのだそうで、その肉体の価格は数万ドル(数百万円)という高値で取引されることもあるという。

近年の惨殺では、生きたまま身体を解体されるされる事件もあり、カナリア諸島に逃げてきたアルビノをスペイン政府が難民として認定したというニュースも流れている。

かつて、身体障がいは神が授けた子として、大切に扱われ、神頼みの儀式の時に、神に捧げられたという話とオーバーラップする。

人と違うことが私は嬉しいとサリフ・ケイタは語り、その事を認め合うことが平和なのだと歌う。

2010-08-16

ニッポンの課長 Section chief in Japan

「社長は誰でもなれるけど、課長は下積みしなければなれるものではない。」と語られるニッポンの課長さんたち。

今世紀初頭に書かれたこの本では、バブル後遺症からの会社建て直しに奔走する課長さん、不景気風もなんのそののヒットメーカーの課長さん、動物園から児童虐待ロボット開発まで社会貢献に全力尽くす課長さん達、おらが町、おらが村を活性させる課長さんなどなど、ホワイトカラーブルーカラー狭間に立ちつつ、小さいながらもおらが部署を守り抜こうとする30代から50代の課長さん達の生き様をレポルタージュして読ませてくれる。

そこから見えてくるのはお先が見えない今の日本でどうすれば活路を見いだせるかの試行錯誤

そこで時々出てくるのが、当たり前とされてきた東京志向への抵抗。

東京から上海にビジネス拠点が移りつつある時、沖縄を中心の地図を思い描けば、沖縄はアジアの中心にある。普天間ばかりのアジアの中心論争の昨今、沖縄はビジネス業界でもアジアの中心になろうと試みる。

東京と上海のバックアップとしての沖縄、地震が比較的少ない沖縄、物価単価が安く、若者の就職難人件費を抑えられる時事事情などなど、売り文句を探し回るIT課長さんはここに登場する課長さん達の代表格みたいな存在。

板挟みの中間管理職は上に余計な口を挟ませない、下にリーダーシップを発揮する、か弱いながらも一国の主のような立場でもある。

上を3割、下を7割見ている人が出世する人でしょうと語られる課長さん像は、太鼓持ちで、お山の大将でもダメという微妙な位置。

だからこそ、すごろくは前に進めるのであるのだろうなぁとビジネス力学を読む私。

2010-08-13

告白 Confession

娘を殺された女教師の命の授業から物語は始まる。

嫌われ松子の一生」の中島哲也監督作品初体験ながら、そのシニカルな映像テンポはうまいなと思った。

湊かなえの原作は読んでいないけど、子供が思春期になり、大人になることに気付かぬまま、自分の価値だけで子供と接する親と、与えられるだけ与えられたものを使いこなし事に必死になり、疲れ切り、大人の要望に応えようとする中学生たちの心のゆがみに、女教師の娘は生け贄になった。そんな話をそれぞれの告白によって、物語は綴られていく。

自虐的な話を更に自虐に綴る事で、今の社会の虚しさが見えてくるようなそんな映画。

開き直った松たか子のクールさは決まっていたけど、自閉気味に騒ぐ中学生たちはやはり薄気味悪さを感じてしまうし、身勝手な親たちは心から死んでくれと思いたくなりもする。

ネットでこの映画の感想評に、「教師として無責任」という記事を目にしたけれども、役割分担の責任逃れが今の社会じゃないのかと思ってしまう。

まぁ、これも映画と同じで、「なーんてね」でエンドロールになるのだけれど。

2010-08-12

命日参り Visiting of anniversary of one's death

今日は実母の命日であり、養父の月命日に当たる日。

用事を早く切り上げ、納骨してあるお寺さんに行き、お盆の供養を済ませてきた。

今年は特に、年明けの入院もあり、本人は切実感はなくとも、主治医から話を聴くと命拾いをしたのだなぁと云う思いが強く、見守ってくれたであろう実母、養父の命日参りは果たしたかった。

全身がガンにむしばまれても、頑なに息子である僕を言語治療中の東京から呼び戻す事を拒んだ実母と、身体の弱り具合を感じつつ、無性に寂しがった養父のどちらの死も看取ることは出来なかったけど、自分も12日に死ぬような気はしていて、入院中も年明けの12日を越せれば、助かると自分に願かけていたりした。

「生きながらえました」の御礼と共に、「一緒に家に帰るよ」のお盆のお迎えに、二人の月命日があると思っている。

台風一過の夜の街、二人は今の街並みをどんな思いで見ているのだろうか?

2010-08-10

違います? Do you differ?

「あれ?今日は。…違います?」

スーパー銭湯から出てくる時、目があったおばちゃんにナンパされました。(笑)

週末の仕事場でもアルバイトの学生が僕によく似た客がいると教えてくれるけど、まだ本人を見たことがない。

もしかするとこのおばちゃん、その僕似の人と間違えたのかも。

会ってみたいな、僕似の人と。

2010-08-09

アルバム Album

職場で、心霊写真の話が盛り上がり、僕がこの職場に入った頃、30年前に写した職場の写真にそれらしきものが写っているという話をしたことから、その写真を見せてくれと、アルバイトの学生たちにせがまれ、久々に昔のアルバムを引っ張り出した。

久しぶりに見る写真の数々に懐かしい想い出を思い出しながら、見ていくと、亡くなった友だちの顔がいくつも現れる。

心霊写真じゃないけど、年月経ると想い出も亡くなった人ばかりになるんだなとほくそ笑み、話題の写真の張り付いたページを見つけ出す。

「みんなが笑っているけど、本当はどう何だか判らない。けれども、本当のことは判らないけど、これが私の生きた証。」

テレビドラマの「岸辺のアルバム」でこのようなことが語られた事が記憶にあるけど、私にしか判らない歴史がアルバムにはあるように思う。

みんな笑っているけど、こいつはいついつ亡くなり、こいつとは付き合いなくなった。

そんな想い出でも棄てることなく、貼り残してあるアルバムはやはり自分の生きた証なのだからなのだろう。

あの日に帰りたいとは思わないけど、明日はもう少しマシになりたいと思ったりする。

写真を撮らなくなって十数年、アルバムの中のブランクを知るのも自分だけだからいいじゃないか。

2010-08-07

樹高千丈 落葉帰根 Even The Leaves of The Tallest Tree Fall and Return to Its Root

用事が済んで、少し早く帰れた日、街をぶらつこうかと思い、歩いていると、懐かしい人影を見かけることがこの頃多くある。

何となく疎遠になって、何年も逢わなくなった人と偶然の再会は、互いの近況報告から始まり、懐かしがりつつ、それぞれの今の時間に追われるように、別れを惜しむ。

中島みゆきの曲である「樹高千丈 落葉帰根」は傷つけあうような関係になりそうな人と別れ別れになって、大きな樹の正反対の枝につく葉っぱになり、落ち葉になった時、同じように大樹の根に帰っていくものなんだと歌った歌である。

懐かしい人と巡り会う度、この「樹高千丈 落葉帰根」が思い浮かび、根の強さを信じたくなる。

「私は独りが嫌いです。
それより戦さが嫌いです」

激しい通り雨もやんだので、久々、従姉の店に顔を出す。

「樹高千丈 落葉帰根」月遅れ北の国の七夕の夜に聴きたくなる。

2010-08-06

BOX 袴田事件 命とは

「人を裁くことは、同時に自分も裁かれることではないのか?」

昭和41年、静岡県清水市で起きた「袴田事件」に関わった元裁判官視点から描かれたこの映画は従来の社会告発的な「冤罪事件」ものとは一線を画した作品になっていた。

男女の性愛を描くピンク映画出身の高橋伴明監督は、裁きに関わる人間の苦悩を生臭く描き、人が人を裁くことを映画として見せつける。

人の生死と自分のプライドという天秤ばかりに揺れ動く警察、検察、裁判官たちの中、どう見てもおかしいのに、おかしいといえなく、「冤罪」で死刑判決を言い渡してしまった元裁判官は、裁判官の守秘義務と死刑判決で強い拘禁反応をおこし、適切な治療すら受けさせて貰えない袴田被告状況に、揺れ動き、平成19年、40年目の告白に踏み切る。

極限状況に置かれた時、人はどうなるのか。映画ではアウシュビッツユダヤ人たちが、ゲシュタポに命じられる前に、命じることをやろうとする「苦痛の緩和」の話が語られ、戦時中翼賛選挙を無効にし,東條英機首相と争った吉田久裁判長の話が語られる。

「人を裁くことは、同時に自分も裁かれることではないのか?」

「冤罪」の話を聴く度、いつも思うことだが、裁く者のプライドだけでその真犯人が捕まることをまぬがれ、罪も償わずにいるこの社会の方がはるかに怖いと思う。

テレビでは被爆65年の夏、ヒロシマニュースが流れ、初めて参加したアメリカ大使に対し、広島に原爆を投下した米軍B29爆撃機エノラ・ゲイ」の機長ポール・ティベッツ氏(故人)の息子が「歴史の改ざん」と批判したと語っている。

元ちとせの「死んだ女の子」のライブクリップを見たくなった。

幼くして原爆で死んだ女の子、若くして獄中生活を強いられた袴田さんを思って。

2010-08-05

カラー・コントラスト Color contrast

この頃、カラー・コントラスト・アナライザーという背景色と文字色のコントラスト比が一定度確保されているかを調べるソフトを使っている。

先日のゼロックスセミナーでもカラー・コントラストの説明として、強調でよく使われる赤い文字が色弱の方には色が抜けて見える実例を見せてくれて、印刷の際には文字の縁を白っぽくすることで、文字が判るという配慮が示されていた。

なかなか判りにくい色のコントラストの指定が、このソフトを使うと小さめの文字と大きめの文字でのコントラストが判る。

色弱は障がい認定がされていてもなかなか一般には判りづらく、パソコンを使う人も色覚が衰えるという話も聞くから、そのニーズは意外と多いのかも知れない。

カラー・コントラスト・アナライザーを使って、身近な色遣いを調べてみませんか?


厚生労働省のサイトの画像チェック

2010-08-02

タンニングポイント Tanning point

従妹が冠婚葬祭の業者に就職が決まり、さっそく互助会の勧誘にやってきた。

冠婚葬祭業ではこの頃は自殺者の葬儀が多いらしく、亡くなった方のご家族は悲しむ暇もなく、呆然とされているケースが多いらしい。

不景気のご時世、業界では高齢化の後の少子化の波を恐れているという話を聴かされたけれども、冠婚葬祭業はこれから高齢化されていく団塊の世代がいるのだから、少子化の波はまだ先のような気もする、と従妹に話をした。

先日の講演会で聴かされた、これからは5年ごとに社会のタンニングポイントが来るという話をふと思い出す。

それは定年を過ぎた団塊の世代が65歳までの雇用延長を終える2012年から2014年までの労働力の減少、税収の激減。団塊の世代が70歳となり、福祉サービスの需要がピークになる2017年から2019年まで福祉施策の問題。そして、75歳になる2022年から2024年の老人ケアの問題。

今の社会は歴史上類を見ない極端な人口を示したこの団塊の世代の成長と共に、社会形成がなされてきたといわれており、その世代が社会の一線から退く今日は肥大化した社会構成の立て直しが迫られる時代でもあるらしい。

団塊の世代が築きあげたものを根本から見直さなければならない時は第二次大戦の後、世界中で生まれた平和の申し子たちの足跡をどのように受け継ぐかにもなるようだ。

そのタンニングポイントを乗り切ることは、呆然とする遺族になるかどうかと似ていなくもないかなと思ったりする。

団塊の世代から遅れること、10年後に生まれた自分はその10年分、試練を味わうのかもなと思いもする。

2010-08-01

卒業 Graduation

重松清さんの著作を年代順に読んできて、この「卒業」が今の重松清さんの作法の始まりなんだろうなと思う。

泣けるとされる「流星ワゴン」などはそれ程感銘も受けはせず、幼き日の著者がベースになっているといわれる「きよしこ」の方が素直に泣けた僕としては、この「卒業」は重松節を心ゆく堪能出来た。

親の死をベースに展開される四つの物語は、親の死と向き合うことで、無理してきた自分を知る物語たちでもあった。

落ちこぼれの妹をけして叱らなかった母から落ちこぼれた息子にどう対処していいか判らない自分の了見の狭さを知る「まゆみのマ-チ」、末期がんの元教師の父の看病を「死」にこだわる教え子にやらせる「あおげば尊し」、廻りから「死ね」と云われ、簡単に死ねそうな気になってしまう女の子が自殺した父を知ろうとする「卒業」、幼い頃に亡くした実母の面影に固執し、義母と対立する「追伸」。

どれも泣ける話だけれども、最後の「追伸」は自分自身の実母と義母に対する想いと重なり、声をあげ泣きそうになるのをぐっとこらえた。

著者自身、許しの物語と語る通り、許された者たちの話はやはり泣けてくる。

「与えるよりも与えられよ」「愛するよりも愛されよ」

マザー・テレサの言葉がふと頭を過ぎったりもする。