2011-07-22

大鹿村騒動記 Ooshikamura soudouki

先日亡くなられた原田芳雄さんが「自らの原点を確認するためにどうしてもやっておきたい」と切望したという映画『大鹿村騒動記』を観てきた。

江戸から数えて300余年。「村歌舞伎」の伝統を途絶えることなく続けている南アルプスの懐に抱かれた大鹿村。そこで繰り広げられる人間ドラマは爺婆たちの観るも滑稽な物語。

仲の良い友達と駆け落ちした女房が健忘症になり、駆け落ちした友達と帰ってくるところから物語は始まる。性同一性障害の悩みを抱えた男の子やら、自分達が生きているうちには実現しそうもないリニアモーターカーで言い争う村人たちやらにぎやかな村の日常は、原田芳雄のいう「自らの原点」のような気もする。

健忘症でも置き去りにした夫の好物は忘れず、「村歌舞伎」での自分の台詞は暗唱する女房に物語の力点は置かれ、帰ってこれる故郷の「村歌舞伎」の重さが伝わってくる。

監督の阪本順治も変に気張った社会派を作らせるより、その原点である『どついたるねん』の延長にあるこの『大鹿村騒動記』の人情喜劇は、笑わせ、泣かせてくれる。

映画後半で延々演じられる「村歌舞伎」の演目『六千両後日之文章重忠館の段』は大鹿村にのみ伝わる外題で、源氏平家の愛憎劇は落ち敗れた者への悲哀が演じられ、それを伝える「村歌舞伎」の中にまた「自らの原点」を観る。

こぢんまりした村社会、原田芳雄は「自らの原点」「日本の原点」をそこに求めたのだろう。

帰るところがある幸福。それを忘れたところに今の豊かさがあるかのように。

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